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ガブッといけない問題。

私の前歯は一本折れている。折れた理由はここでは説明しない。とにかく折れている。差し歯で十数年以上の歳月を過ごしてきた。いつまでも終わらぬ地獄のような残業中も、恋人と過ごした甘く切ないひとときにも、賞に落ちて泣いたあの日にも、息子かられんげの花束を受け取った日にも、いつも私の口内には差し歯がいた。寺地with差し歯だった。

そんな夫よりも長いつきあいの差し歯を、新しくつくりかえることになった。いくら歯医者さんにそうすすめられたからと言ってそんな売れないバンドの人が有名になった途端に長年連れ添った糠糟の妻を捨てて若い女と結婚するみたいなことしていいのかなと思ったが「歯茎のかたちが変化しているので新しい歯が必要」らしいので了承した。仕方ない。人も街も変わっていくものだ。歯茎とて例外ではない。

というわけで新しい差し歯ができるまでのつなぎとして、現在私の前歯には仮歯が入っている。あくまで仮の歯であるから、くれぐれも前歯だけでかたいものをガブッといかないようにと言い含められている。
「かたいもの」はどれぐらいかたいとアウトなのか。私は先生にそう尋ねた。
ちなみに私はその先生のことをずっとヤナギブソンに似ていると思っていたのだが、よく見るとべつに似ていなかった。ふたりとも目が二重ですね、ぐらいにしか似ていなかった。
似ていないのだが私はこれまでずっと先生のことを心の中で歯科ギブソンあるいはギブせんせいと呼んでいたので以下歯科ギブソンと呼ぶ。

歯科ギブソンはすこし首を傾げるようにして「……んーおせんべいとか?」と語尾を上げた。おせんべいはやはり堅焼きなのか、それともおばあちゃんのぽたぽた焼き程度でもアウトなのかと確認したかったが、歯科ギブソンが忙しそうにしていたので黙っていた。

なにをガブッといくと仮歯はとれるのか。どこまでなら大丈夫なのか。ちなみにはじめて差し歯を入れる際に入れた仮歯は、ホットケーキをひとくち噛んだ瞬間にボロッとれた。だからたぶんおばあちゃんのぽたぽた焼きも絶対だめだ。

仮歯がとれるのが怖すぎて、私は現在ルマンドというお菓子でさえも前歯で噛めない。奥歯のほうに直接インしている。鏡で確認したら、奥歯にルマンドを直接インするときの私は野獣のような顔をしていた。(歯茎をむき出しにしていた)
なので人前でものを食べる時には小さく小さく切り分けている。直径三センチぐらいのおまんじゅうも六分割ぐらいして食べている。「野獣」というあだ名がつくのは避けたい。だからそうするしかないんだ。あと書いてて思ったけど私、菓子ばっかり食べてますね?