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ありがとうございましたって言いたい

寝る前に枕元で本を読んでもらったりお話をしてもらう、ということに子どもの頃とてもとてもとても憧れていて、でも両親は忙しい人たちだったので、それは一度もかなわなかった。
大きくなってからのある時期に不眠症みたいになったことがあって、その時相談した知人が桂米朝という人の落語のCDを貸してくれた。その知人は毎晩寝る前にイヤホンで落語を聴かないと眠れないらしかった。

私はその時落語についての知識は皆無で、聴いてもよくわからない部分も結構あって、でも気分が落ち着く声だなあと思いながら耳を傾けているうちにいつの間にか寝ていた。深くてあたたかい眠りだった。
その後自分で「桂米朝上方落語大全集」という十枚一組で二万円ぐらいするCDを買って、毎日かわりばんこに聴いたけれども、いつも途中で眠ってしまった。
睡眠薬がわりに使っていると知られたら、落語ファンの人に怒られそうな感じがするなあ、などと思いつつ。
それをきっかけに寄席に行ったりするようになったけど私の「好き」はいつでもまったくもって無責任なので、おもしろかったなあ、で終わってしまう。他の落語家の人の名前とか噺の題名をすぐ忘れてしまうので、周りの人に「……ほんとに好きなの?」とよく呆れられた。

人間国宝とか文化勲章とか、もちろんすごいことだけど私にとってはあんまり大事じゃなくて、ただひたすら桂米朝という人の声と顔と、佇まいと、そこから醸し出されるやわらかい空気が好きだった。ただただ私にお話を聞かせてくれる人、として好きだった。
昨日の夜中にTwitterを開いて訃報を知って、ああもともと遠い存在だったけれども、ほんとうに手の届かないところに行ってしまったんだなあと思った。携帯をしまってから、布団に入るまでのあいだにちょっと泣いた。
私はきっとこれからも、眠れない時じゃなくても、このCDを何度も聞くんだろうとも思うし、だからありがとうございましたって言いたいし、何回言っても言い足りないような感じがするし、ありがとうございましたって何回言っても言い足りないような存在が胸にあるということは幸福なことだと思っている。私はとても幸福でした。